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滋賀・欣求の道
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滋賀第8番
永源寺
宗 派 臨済宗
永源寺派大本山
本 尊 世継観世音菩薩
参拝メモ
[参考資料:『永源寺』当山パンフレット、『日本歴史地名体系』(滋賀県の地名編)平凡社

永源寺は1361年(康安元年)近江守護職佐々木六角氏頼が入唐求法の高僧寂室元光禅師に帰依し、領内の土地を寄進して伽藍を創 建したことに始まる。『寂室和尚行状』には、「腐敗した中央の禅風を嫌い、元光の高徳を慕って2000人余の修行僧が集い、山中には56坊の末庵を有した」と記されている。 元光の滅後も、4人の高弟らが教えを守り永源寺を受け継ぎ、大いに隆昌したが、戦国時代の相次ぐ兵火により、伽藍や山内の幾多の寺院は全て焼け落ち、以後寺運は衰退した。
  江戸時代の1643年(寛永8年)妙心寺の僧別峰紹印禅師は、永源寺の復興のために尽力し、弟子の空子和尚も永源寺第79世として住山。彼らの懸命の働きによって、名声高き一絲文守禅師を第80世住職に迎えた。これにより後水尾天皇東福門院和子や彦根藩主井伊家の帰依をうけて伽藍が再興、一絲文守禅師は中興開山となった。 1764年(亨保9年)出火で方丈・仏殿・開山堂が焼失。その後復興したが、1764年(明和元年)再び焼失。その復興は井伊家の支援を得て行われ、現存する建造物の多くはこの時再建されたものである。
  明治になり一時、臨済宗東福寺派に属したが、後に永源寺派として独立。全国百有余の末寺を統轄する大本山となり、現在に至っている。

永源寺山門 永源寺本堂
永源寺山門(国重文)。2階建2重門で、棟札によると1802年(享和2年)の上梁。楼上に釈迦牟尼佛・文殊菩薩・普賢菩薩並びに十六羅漢を
安置する。1998年(平成10年)に大改修が行われている。
永源寺方丈(本堂)。葦葺き大屋根の本堂は1765年(明和2年)の再建。本尊は世継観世音菩薩。
永源寺境内紅葉 永源寺境内紅葉
本堂の前の庭園の紅葉が真っ盛りであった。
永源寺参道 参道わきの十六羅漢像 参道脇の眼鏡をかけた地蔵
永源寺参道。約120段の石段を登ると右の写真の羅漢像が出迎えてくれる。 参道の左脇の岩肌に十六羅漢像が彫られている。 参道の脇に建つ眼鏡をかけた地蔵。
永源寺境内紅葉 永源寺境内紅葉 永源寺法堂兼仏殿
永源寺総門。 鐘楼。現在の鐘楼は1772年(安永元年)の再建。梵鐘は先の大戦時供出したが、1948年(昭和23年)再鋳された。 法堂兼仏殿。1728年(享保13年)の再建。後水尾天皇より寄進された釈迦牟尼仏など3像が安置されている。
永源寺開山堂 永源寺経蔵 境内に建つ松尾芭蕉の句碑
開山堂。寂室禅師(正燈国師)を祀る。1725年(享保10年)彦根藩主井伊直惟より能舞台の寄進を受け再建された。 経蔵。1676年(延宝4年)佐々木満高が再建。内部の転輪蔵には1672年(寛文12年)南峯禅師が中国に渡り、貰い受けた明版大蔵経が納められている。 境内に建つ松尾芭蕉の句碑。「こんにゃくの さしみもすこし 梅の花」1693年(元禄6年)芭蕉50歳の作。
永源寺境内に祀られていた神社 紅葉(落ち葉)に占領された手水鉢 永源寺境内紅葉
境内に祀られていた神社。現地案内は見当たらず、祭神などは不明。 紅葉(落ち葉)に占領された手水鉢。 境内の紅葉。
 
ご朱印
永源寺朱印