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大阪第10番
太融寺
宗 派 高野山真言宗
本 尊 千手千眼観音菩薩

大阪再発見 太融寺へ
参拝メモ
[参考資料:『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編)平凡社]

太融寺は寺伝によると、821年(弘仁12年)に弘法大師嵯峨天皇の勅願により創建、当初は宝樹院と号した。山号は弘法大師が当地に生えていた芳しい霊樹で地蔵・毘沙門の2躯を刻んだことに因んだと伝える。
  その後、清和天皇の時代)在位:858~76年)、嵯峨天皇の第12皇子河原左大臣源融がこの地に八町四面を寺域とし、七堂伽藍を建立し、融の諱による現寺号を下賜されたという。
  承久年間(1207~11年)には後鳥羽上皇が参詣したとも伝える。1615年(元和元年)大坂夏の陣の兵火で全焼したが、元禄年間(1688~1704年)に本堂、南大門など諸堂25棟が復興した。1695年(元禄8年)の『大坂町中江出寺請状諸宗寺々五人組判形帳』には高野山西禅院末とあり、西高津町(現中央区中寺1丁目)の自性院などと組寺を形成していた。
 1945年(昭和20年)6月の大空襲で、堂塔伽藍一切が灰燼に帰したが、本尊千手観世音菩薩だけが無事難を逃れた。戦後再建に着手、本堂・大師堂・一願堂・護摩堂・宝塔・客殿・鐘楼など20余棟が復興した。


本堂正面に建つ山門 大融寺本堂
本堂正面に建つ山門 本堂。1960年(昭和35年)の再建。本尊の千手観世音菩薩は嵯峨天皇の念持仏と伝わる。脇仏として地蔵菩薩・毘沙門天王2体安置。
宝塔(奥の建物)と客殿(手前の建物) 淀君の墓
宝塔(奥の建物)1986年(昭和61年)建立と客殿(手前の建物)。 境内に建つ淀君の墓(奥の九輪塔:戦災で破損し、現在は六層になっている)。1877年(明治10年)、城東練兵場造成に当り、大阪城外弁天島の赤原神社(祭神の1柱に淀姫が祀られていた)から出土した人骨を当寺に移し、供養した。
太融寺西門 一願堂 奥の院
太融寺西門。「源融公之旧跡」の碑が建てられている。 不動堂(一願堂)。近畿三十六不動尊霊場第六番札所。本尊不動明王を安置する。一願不動と称し、一願成就の利益があるといわれる。 奥の院。現在の不動堂の本尊は1954年(昭和29年)に再刻された2代目で、初代の不動尊は戦災で焼け落ち、がれきの中から発見され、現在は秘仏としてこの奥の院に安置されている
ぼけ封じ観音像 護摩堂 大師堂
ぼけ封じ観音像。ぼけ封じの霊場は全国各地にあるが、この観音霊場は西日本の真言宗の寺院が集まって、1982年(昭和57年)に発足。東は滋賀県から西は
九州長崎県まで点在する。
護摩堂。本尊不動明王、矜迦羅、制咤迦の二童子を安置する。 大師堂。摂津国八十八ヶ所霊場第六番札所。本尊弘法大師は江戸時代初期作。
白龍神社 境内に集められている石灯篭 「近代日本政党政治発祥の地」石標
白龍神社。 境内の一か所に集められている石灯篭。 「国会期成同盟発祥之地」石標。1880年(明治13年)板垣退助らが起こした、愛国社(後の自由党)が中心となり、国会期成同盟結成大会が当寺で開かれた。

ご朱印
大融寺朱印