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大阪・豊楽の道
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大阪第20番
四條畷神社
主祭神 楠木正行
大阪再発見 四条畷神社へ
大阪再発見 楠木正行墓へ
参拝メモ
[参考資料:『日本歴史地名体系』(大阪府の地名編)平凡社]

四条畷神社は、1348年(正平3年)四条畷の合戦で死んだ南朝方の総師楠木正行以下24柱を祀る。1890年(明治23年)の創建で旧官幣大社。
  明治維新後、南朝称揚の時代風潮の中で、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化され、その息子である正行も父の遺志を継いで、南朝のために戦い戦死したため、小楠公として崇められるようになった。
  このような時代背景の中、正行の墓地が整備されたのちは、神社創建の機運が高まり、1885年(明治18年)頃より建立の運動が起こり、住吉平田神社神職・三牧文吾らの地元有志によって、1888年(明治21年)「社殿造立社号下賜願」が出され、翌明治22年内務省より神社創立許可された。

  当初は正行の墓地所在地に建立する計画だったが、同所が低地であったため、景観がよく見晴らしの良い飯盛山麓の現在地に社地を定められた。 社名も初めは「小楠公神社」の名前で出発したが、現神社名が宣下されたため、改称した。 
四条畷神社神明鳥居 四条畷神社拝殿
拝殿の正面に建つ神明鳥居、この鳥居は当社鎮座百年にあたり、
伊勢神宮より贈られた。
四条畷神社拝殿
御妣(みおや)神社 四条畷神社二の鳥居 二の鳥居の奉納会社
境内摂社御妣(みおや)神社。楠木正行の母を祀る。
この摂社は1924年(大正13年)に認可がおり、翌1925年(大正14年)に創建された。
四条畷神社二の鳥居。この鳥居は裏側の奉献会社名は「富国徴兵保険相互会社(現富国生命)」とあり、いかにも当時の時代を表している社名である。
国道170号線(旧東高野街道)に面して建つ一の鳥居 標柱 二の鳥居を通して西側を見る
国道170号線(旧東高野街道)に面して建つ一の鳥居。1892年(明治25年)建立。朝日新聞社の奉献。 二の鳥居の階段を上りきったところにある注連柱 二の鳥居を通して西側を見る。楠木正行の墓所まで道は一直線で伸びている。
末社・楠天神社 末社・本有源招魂社 四條畷神社本殿
境内末社・楠天神社。祭神は菅原道真公 境内末社・本有源招魂社。元は飯盛山東峰有源山に祀られていたが、2003年(平成15年)の当社に奉遷され、2007年(平成19年)新しい社殿を建立し、鎮座。 四條畷神社本殿
灯篭・狛犬 父正成との「桜井の別れ」の石像 楠公慰霊塔
明治以降創建の新しい神社の為か、灯篭や狛犬の
奉納は非常に少ない。灯篭は1890年(明治23年)、
狛犬は1897年(明治30年)の記銘があった。
父正成との「桜井の別れ」の石像 楠公慰霊塔*。豊中の山林で発見され、1991年(平成3年)に当社に寄贈を受け、移設。
・楠公慰霊塔* 台座には「正成が桜井でわが子と別れたのち、延元三年(1338年)安楽寺に宿泊し、兵庫で自弑し給う。元中三年(1386年)大内河内守義弘」と記されているとのことであり、この大内義弘が応仁の乱で戦死した守護大名その人なら、生年1356~没年1400年で年代的には合い、歴史的価値がありそう。安楽寺の所在地がわかれば、辿れるかも知れない。

ご朱印
四条畷神社朱印