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大阪・豊楽の道
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境内の旧跡・石碑・句碑

このページは、境内に建てられている石碑などをピックアップした。

・更新記録
星合の池 入口鳥居 天神橋のプレート >旧川崎東照宮 鳳輦庫
星合池。境内北側にあり、通称亀の池とも呼ばれる。
池に掛っている橋は星合橋(別名愛嬌橋)といい、昭和の初め頃までは適齢者のお見合いの場所だったという。
天満宮が最初に祀られていたという明星池は星合池の更に北側にあったが、明治時代に埋め立てられている。
星合池の傍に残る天神橋のプレート。天神橋は1888年(明治21年)、それまでの木製からドイツ製の鉄橋に架け替えられたが、このプレートはその時に、橋に取り付けられていたもの。 旧川崎東照宮 鳳輦庫。1872年(明治5年)、現在の造幣局あたりにあり、廃社された旧川崎東照宮の神輿庫で、北野東光院(萩の寺)に一旦移されたが、1934年(昭和9年)に松平忠義寄贈の石灯篭三基と共に当社にへ寄付された。
「神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑」 「和魂漢才碑」 瓢箪石(右)としるべの石(左)
大門を入った右手にある「神武天皇聖蹟難波之碕顕彰碑」。『日本書紀』にある、神武東征の際、上陸した難波之碕はこの辺り(上町台地の先端)だといわれ、紀元2600年(昭和15年)の建立。 大門を入った右手にある「和魂漢才碑」。東坊城聡長の揮毫により1852年(嘉永5年)の建立。北野天満宮にも東坊城聡長の揮毫の碑が建てられている。 大将軍社の東側に置かれている「瓢箪石」(中央右側の穴の開いている石)穴の形が瓢箪?横の立札に「明治12年ごろ」と書かれてあり。「しるべの石」(左側の長細い石):立札には「明治10年建立、明治21年移納」とあった。
西山宗因の句碑 西山宗因の句碑(左)と松尾芭蕉の句碑(右) 松尾芭蕉の句碑
蛭子門を入った右手に建つ西山宗因の句碑
『浪華津に さく夜の雨や 花の春』
が建つ。
白米稲荷社の西側横に並んで建つ西山宗因の句碑(左)
『なかむとて 花にもいたし 首の骨』
松尾芭蕉の句碑(右)『楳咲て よろこぶ鳥の 気色かな』
「天満会館」入口の建てられている松尾芭蕉の句碑
『行年や 薬に見たき 梅の花』が建つ。
境内北側の一角の石碑
境内北側の一角は筆塚を中心に、歌碑・句碑などが所狭しと建てられている。右側の社は「天満弁財天・鶴姫大明神・亀吉大明神」の3神が祀られている。右端の木陰の黒い石は小西来山の句碑
「大阪 ガラス発祥之地」の碑 「西山宗因栄向庵跡」の碑 天満繁盛亭
蛭子門の傍らに建つ「大阪 ガラス 発祥の地*」の石碑。
裏面に刻まれている碑文によると、『宝暦年間(1751~64年)長崎商人 播磨屋清兵衛 天満天神鳥居前ニ工場ヲ設ケ 当時ノ玉屋ヲ開業 大阪ガラス商工業ノ始祖トナル』とある。1979年(昭和54年)の建立。
表門(大門)の傍らに建つ「西山宗因向栄庵跡」の碑。 天満繁盛亭。神社の北側に駐車場であった場所に、上方落語の定席寄席として2006年(平成18年)に開席。
*現在ではこの辺りは完全に商業地となっているが、
終戦直後はまだガラス工場が存在していたと記憶する。