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奈良・鎮護の道
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奈良第16番
大神神社
大神神社・1へ 大神神社・2へ
大神神社・3へ
[率川神社所在地]:奈良市本子守町
JR奈良駅よりは三条通りを東へ、徒歩約5分
観光センター角を北へ、やすらぎの道を南へ、すぐ
近鉄奈良駅よりはやすらぎの道を南へ、徒歩約7分       
境外摂社・率川神社
[参考資料:率川神社パンフレット『率川神社縁起』]

『率川神社縁起』の「ご由緒」によれば、「593年(推古天皇元年)大三輪君白堤(オオミワノキミシラツツミ)が勅命により創祀した奈良市最古の神社である。祭神の媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメノミコト)は神武天皇の皇后で、三輪神社の祭神大物主大神(狭井大神)の子供にあたり、『延喜式』にには率川坐大神御子神社の名で記載されている」。
 6月17日に執り行われる例祭「三枝祭」は沢山の参拝者が訪れるが、その起源は古く、701年(大宝元年)に制定された『大宝令』には、国家の祭祀として記載され、起源は更に遡るとみられる。平安時代には宮中よりの使者が供物や神馬を献上するなど行われたが、後世いつの間にか中断していたのを1881年(明治14年)古式の祭儀に復活され、現在に至っている。

パンフレット『率川神社縁起』には、元宮内庁侍医・医学博士 永井良樹氏が「五十鈴姫命と推古天皇」というタイトルで一文を寄せられており、この中で推古天皇と三輪族との関わりについては、推古天皇は五十鈴姫命の出自である三輪族に強い恩義を感じられていたと結論づけておられ、理由の一つとして敏達天皇が崩御後、炊屋姫皇后(後の推古天皇)が殯宮にいる時、皇位を奪おうとした穴穂部皇子が攻めてきたが、三輪君逆(ミワノキミサカウ)がこれを阻止したが、後に君逆は穴穂部皇子に殺されてしまったとのことで、三輪族に強い思いを感じたに相違ないとされておられ、これが後の率川神社の創基につながったとしておられる。しかし、率川神社の創基者の大三輪君白堤には全く触れておられないので、気になり少し調べてみた。(続きは下記)

率川神社正面入口 正面入り口の鳥居 拝殿
ならやま大通りに面した率川神社正面入口。注連柱と鳥居が前後して建てられている。 正面入り口の鳥居。いわゆる「一の鳥居」か。 拝殿。入口は鍵が掛かっており、中には入ることはできなかった。
拝殿の内部 左側から写した本殿 右側から写した本殿
拝殿の内部。拝殿の外から、ガラス越しに本殿を拝んだ。 本殿を塀の格子越しに写した。上の写真は左側から狭井大神(五十鈴姫命の父神)、媛蹈韛五十鈴姫命、玉櫛姫命
(五十鈴姫命の母神)、右側の写真は右側から玉櫛姫命、媛蹈韛五十鈴姫命、狭井大神。各々本殿は一間春日造、
檜皮葺で、奈良県の有形文化財に指定されている。
境内摂社・末社が祀られている一角 摂社・率川阿波神社 率川阿波神社を中央に、末社・春日社(右)と末社・住吉社(左)
境内摂社・末社が祀られている一角。鳥居の右側に建っ
ている灯篭は摂社・率川阿波神社が祀られていた旧地
より移した。「享和三年(1803年)阿波社」の銘がある。
摂社・率川阿波神社。この神社は772年(宝亀2年)
大納言藤原是公建立と伝えられ、『延喜式』に載る古社で、事代主神を祀る。旧跡は奈良市西城戸町にあり、1920年(大正9年)当地に鎮座。
摂社・率川阿波神社を中央に、末社・春日社(右)と末社・住吉社(左)が並んで祀られている。
本社・大神神社を望む遥拝所 境内に建つ万葉歌碑 「カエル石」
本社・大神神社を望む遥拝所。高さ約2mの石製の衝立には平山郁夫画伯作の「神の山 三輪山の月」の陶版画はめ込まれている。 境内に建つ万葉歌碑。「はね蘰(かづら) 今する妹を うら若み いざ率川の 音の清(さや)けさ」
作者不詳 『万葉集 巻七』。
万葉時代は率川は現在のように「いさがわ」ではなく、いざかわ」と呼ばれていたとのことであり、この歌はいざ(さあ)という言葉とかけて、詠まれている。
カエルの姿によく似た「カエル石」。案内板によれば、「カエル」という言葉から、「お金がかえる」「幸せがかえる」「若かえる」 「無事かえる」などにつながり、縁起が良いとされ、健康回復・旅行安全などを願って、参拝者がこの石を撫でることから「撫で蛙」とも呼ばれ、親しまれているとのこと。

大三輪君白堤をネットで検索すると、「白堤は『古事記』用明天皇3年5月条(586年)に、用明天皇から皇位を奪おうとした穴穂部皇子へ、先帝敏達天皇の殯宮を警備していた寵臣三輪逆(ミワノサカウ)の居場所を密告して、その殺害に協力した人物。」との記述が見られたが、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』には『古事記』に記載されている事柄に加え、「『大三輪三社鎮座次第』によれば、(白堤は)推古天皇のとき、勅により春日三枝神社(現率川神社)をたて、媛蹈韛五十鈴媛命と大物主神を祀った。」との記述があり、『率川神社縁起』と同一の記載が見られた。
 これらのことが事実なら、夫を亡くし、喪に服していた炊屋姫(後の推古天皇)を襲ってきた穴穂部皇子に対し、体を張って護った三輪逆の居所を密告し、死に追いやった白堤は推古天皇にとっても逆臣となる筈だが、しかるにこの事件からわずか7年後に、これらのことを許し、白堤に五十鈴姫命を祀る神社の建てるよう、勅を出したとは信じがたく、疑問が残る。

 『奈良市史(神社編)』には率川神社の創基は、『率川神社縁起』と同じように、「大三輪君白堤が勅命により奉斎したと伝える古社」としているが、『奈良県史(神社編)』では「大三輪君白堤が勅命により奉斎したと伝えるられるが、率川神社の最古の記録は、『続日本紀』に、765年(天平紳護元年)八月の条に「従三位和気王坐謀反謀。(略)索護於率河社中」とあり、謀反が発覚して逃げた和気王が率川社に隠れているところを捕らえられていることからこのころ以前に創祀されていたことになる。」としており、白堤創基説をそのまま取らず、記録重視の記載になっている。

 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』にあった『大三輪三社鎮座次第(以下、『鎮座次第』)』については、桃山大学学習支援センター・講師 向村九音氏が[『大三輪三社鎮座次第』の成立と位相]のタイトルで論文を発表されており、ネットにアップされていた。これによると『鎮座次第』は大神神社の由来を記す「第一部」、祭礼・摂社末社等を記す「第二部」、三輪にまつわる和歌を引用する「第三部」に分けられ、特に「第二部」については、先に神道学者で国学院大学の名誉教授であった吉田長男氏(1909~1981年)が、その内容が聖徳太子が編纂したと伝わる『先代旧事本紀大成経』と共通する部分が多いこと、写本の奥付に書かれている二名の人物が同時に存在しないことから、贋作説を唱えられておられたとのことで、向村氏は色々なな資料を示しながら、吉田説を補強する形で述べられている。 注目される「第二部」では、大神神社には著名な摂社が多くあるが、大直彌神社に先んじ、「鴨都波神社」と「率川神社」が挙げられ、狭井社・檜原社・高宮社・日向社などは記されてなど不自然さがあり、『鎮座次第』に先行する資料には、「鴨都波神社」と「率川神社」のことを書かれたものがないことより、編纂の意図が両社の由緒を三輪に関連づけることにあったかと窺がえること。『鎮座次第』の第二部以降の写本は江戸時代享保以前には大神神社周辺には存在せず,この時期に創作された可能性があるとされている。 吉田氏はこの「第二部」、「第三部」を創ったとされる人物を特定されており、向村氏もこれを支持されている。

 古代から中世にかけては、率川神社が大神神社や興福寺などとのかかわりは不詳だが、1181年(治承4年)平重衡の南都焼き打ちにより東大寺・興福寺などと共に当社社殿も焼失したといわれ、その後の経緯は不明だが、「奈良県史」・「奈良市史」共に、「中世以降は春日若宮の神官あるいは興福寺の僧らによって管理され、近世には春日大社に属していたが、1880年(明治12年)、内務省達によって大神神社の摂社となった」との記載があり(『奈良市史』は明治10年説)、中世には興福寺や春日大社の影響下にあったとしている。 少なくとも13世紀末から約600年間は興福寺・春日大社に属していたことは事実であり、大神神社の摂社になっってからは約140年そこそこしか経っていないが、当社「由緒」に春日大社に関する記述がないのは、大神神社との関わりを強調するためにあえて割愛しているのだろうか。