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奈良・鎮護の道
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奈良第3番
興福寺
宗 派 法相宗
本 尊 不空羂索観音菩薩

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参拝メモ
[参考資料:興福寺パンフレット、『奈良・大和の古寺あるき』 実業之日本社]

興福寺は669年(天智天皇8年)藤原鎌足が造立した釈迦三尊像を安置するため、夫人の鏡女王が京山科の私邸に建てた山階寺を始まりとする。672年(天武天皇元年)飛鳥厩坂の地に移し、厩坂寺と称した。 平城京に都が移ると鎌足の子不比等は現在地に金堂を建て、興福寺と寺名を変えた。この創建の年を710年(和銅3年)とする。
  その後、不比等の1周忌に北円堂が建てられ、不比等の娘である光明皇后聖武天皇の願いにより東金堂や五重塔が建てられ、大寺院となり、奈良・平安時代を通じて隆盛を極め、藤原氏の氏寺として大きな力を持ち、春日大社の実権を手中に収めた。
しかし、武士団の興隆とともに、源平の戦いの戦火や天災などで再三に渡り、堂宇が焼失し、荒廃した。鎌倉時代には康慶運慶などの有名仏師の活躍で仏像が造られ、鎌倉幕府の方針で大和一国の守護職となるほどの力を持つに行ったが、 戦国時代以降、度重なる戦乱や火災のため、力をそがれていった。特に1717年(享保2年)の大火では金堂をはじめと師、中心伽藍が焼失し、東金堂、五重塔、食堂、北円堂、三重塔、大湯屋などが残るのみとなった。

興福寺東金堂(国宝) 興福寺五重塔(国宝)
東金堂(国宝)。726年(神亀3年)聖武天皇が叔母元正太上天皇の
病気治癒を願い建立。創建以来6度被災に遭い、現在の建物は1415年(応永22年)頃の再建。
五重塔(国宝)。730年(天平2年)光明皇后が建立。創建以来5度
被災に遭い、現在の塔は1426年(応永33年)頃の再建。
興福寺三重塔(国宝) 興福寺北円堂(国宝)
三重塔(国宝)。1143年(康治2年)の建立。1180年(治承4年)に
被災したが、間もなく再建。北円堂とともに、興福寺最古の建物。
北円堂(国宝)。721年(養老5年)の建立。1180年(治承4年)に被災したが、1210年(承元4年)頃に再建。
興福寺南円堂(国重文) 興福寺大湯屋(国重文) 興福寺本坊
南円堂(国重要文化財)。813年(弘仁4年)の建立。
現在の建物は1789年(寛政元年)頃の再建。西国33所観音霊場の第9番札所。
大湯屋(国重要文化財)。現在の建物は五重塔と同時期の再建と見られる。内部には大きな鉄の釜が2基ある。 興福寺本坊。興福寺の寺務をとる建物で、表門は天正年間(1573~1592)の建立 。1907年(明治40年)に菩提院北側築地の西方に構えられていた門を移築した。  
中金堂の再建工事始まる 中金堂の再建工事始まる 中金堂の再建工事始まる
2009年(平成21年)9月中金堂の再建工事が始まった。後ろの建屋は仮金堂で、1819年(文政2年)の再建。
この仮金堂は元は薬師寺の金堂を移築した。
中金堂の再建工事 2010年12月現在の様子。 中金堂の再建工事 2012年1月現在の様子。
新しい中金堂の落慶は2018年(平成30年)の予定。

興福寺境内の旧跡
南大門跡発掘調査 南大門跡発掘調査 南大門基壇の復元
2009年(平成21年)9月。南大門跡の発掘調査が行われた。 2009年(平成21年)9月。発掘された様子。 南大門跡2012年(平成24年)3月の様子。
南大門基壇の復元工事が行われている。
復元された興福寺南大門基壇 西金堂跡
南大門基壇の復元 2012年(平成24年)12月。
発掘調査で出土した基壇の遺構を保護するため、高さ約50㎝の盛り土をし、その上に竜山石や凝灰岩などで基壇が復元された。 復元された基壇は、高さ約1.5m、東西約30.8m、南北約16.6m。
興福寺西金堂跡
734年(天平6年)光明皇后が前年に亡くなった母の橘夫人のために建立。堂宇は1717年(享保2年)に焼失した。
国宝の八部衆像・十大弟子像は西金堂に伝わったもの。
西金堂跡の前に建つ「薪能金春発祥地」の碑。
碑文には『薪能は久しく薪猿楽と称し古くは薪咒師猿楽とも称せられ 貞観12年(870年)興福寺 西金堂の修二会が始行せられる…(以下略)。』とあり、現在でも興福寺は毎年5月、観世・金春・金剛・宝生の4流によって薪能が行われている。

ご朱印
興福寺朱印