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奈良・鎮護の道
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奈良第18番
廣瀬大社
主祭神 若宇加能売命
(ワカウカノメノミコト)
櫛玉命(クシタマノミコト)
穂雷命(ホノイカヅチノミコト)
参拝メモ
[参考資料:『広瀬大社 御記略』広瀬大社パンフレット]

広瀬大社は水の神で、風の神である龍田大社とペアで語られることが多い。『延喜式神明帳』には、「大和国広瀬郡 広瀬坐和加宇加売命神社」として神明大社に列し、月次・新嘗の幣帛を受けると記載されており、旧官幣大社である。
  その縁起は社伝によれば、紀元前89年(崇神天皇9年)、広瀬の河合の里長に神託があり、一夜で沼地が陸地に変化し、橘が数多く生えたことが、天皇に伝わり、この地に社殿を建て祀られるようになる。また、 『日本書紀』天武天皇4年4月10日(675年)の項に、小錦中間人連大蓋を遣わし、大山中曽根連韓犬を斎主として大忌神を廣瀬の河曲に祀られたことが記されていて、これが毎年4月4日と7月4日行われた大忌祭の始まりと伝えられる。
  室町時代頃には本社大神の位田や神地封土等を合わせ、500余町を保有していたが、戦国時代の1506年(永正3年)細川政元の命を受けた沢蔵軒宗益が大和国へ侵入した際の兵火に罹り、悉く灰燼に帰した。また天正年間(1573~92年)に豊臣秀長に没収されたことにより、社領が減少し衰退した。

・更新記録
 '13・09・20 最下段 境外摂社追加


広瀬大社二の鳥居 広瀬大社絵馬堂
広瀬大社二の鳥居。鳥居の扁額「広瀬社」は1807年(文化4年)大和郡山第3代藩主柳沢保光の筆による。 広瀬大社馬舎。前には花菖蒲の鉢が沢山置かれてあった。
広瀬大社拝殿 広瀬大社本殿
広瀬大社拝殿。現在の拝殿は明治以降の建築。 広瀬大社本殿(奈良県指定文化財)。現在の建物は1711年(正徳元年)の造営で当社の中では最も古い建物である。2000年(平成12年)に大改修が行われた。
広瀬大社一の鳥居 広瀬大社参道 広瀬大社社務所
広瀬大社一の鳥居。平成10年の台風で倒壊したが、平成12年に再建。 広瀬大社参道。一の鳥居をくぐると昼なお暗き道が続く。 広瀬大社社務所。花菖蒲の鉢植えが所狭しと並べてあった。
馬舎の馬は青銅製 日露戦争戦利品 境内小社祓戸神社
馬舎にはかっては神馬が飼われていたが、現在は銅像に置き換わっている。 日露戦争の戦利品として大砲と弾丸が奉納されている。 境内末社祓戸神社。諸人が知らず知らずのうちに過ち、犯す罪穢れを、祓清める神
境内小社祖霊社 境内小社日の丸稲荷神社 境内小社日吉社
境内末社祖霊社 境内末社日の丸稲荷神社、稲倉魂神を祀る。1805年(文化2年)山城国伏見稲荷神社より分霊鎮座。 境内末社日吉社
境外摂社水分神社、水分命を祀る。境内の西側を流れる不毛田川(小さな川だが、直接大和川に注いでいる)に架かる「ひろせ橋」を超え、西へ100m程行ったところに鎮座する。頂いたパンフレットよると「山野から流れてくる水を田畑に配り、苗草の成長を守るご神徳がある。691年(持統天皇5年)の鎮座。」とあり、敷地の広さから見ても、かつてはもっと大きな社殿であったようだ。
ご朱印
廣瀬神社朱印