大安寺の創建は聖徳太子が平群郡額田部に建立した熊凝精舎を始まりとする。639年(舒明天皇11年)には磯城郡百済川 近くに移り、 百済大寺と称した。673年(天武天皇2年)高市の地に移り、高市大寺となり、のちに大官大寺と呼ばれた。天武天皇の崩御後、大官大寺は
藤原京の造営に伴い、再び場所を移して、現在の明日香村大字小山、香具山の南約700mの地に造営された。
その後、平城京遷都とともに現在地に移築され、大安寺と名を変え、右京の薬師寺に対し、左京の大安寺と言われる程になった。
寺格の高さから西大寺や東大寺に対し、南大寺と呼ばれ、国家鎮護の大きな官寺として名を馳せ、南都7大寺にも数えられ、 三論宗の根本道場として繁栄したが、奈良時代末頃には難解な三論宗が敬遠され、都が平安京へ移ってからは衰退の歴史を辿っている。
1017年(寛仁元年)の火災で、西塔、講堂、食堂、宝蔵、経蔵、鐘楼などが焼失し、その後の再建も旧態に及ばず、興福寺の支配を受けるようになった。加えて、源平争乱で平重衡の南都焼き討ちに遭い、焦土と化した。その時代、時代で修理、再建の努力が続けられたが、最盛期の規模に復することはなかった。
|