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浄瑠璃寺
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浄瑠璃寺境内発掘調査
[参考資料:現地説明会配布資料『浄瑠璃寺庭園第3次発掘調査』]

平成23年度から3か年計画で始まった浄瑠璃寺庭園の発掘調査も3年目を迎え、9月7日に第3次発掘調査現地説明会が行われた。今回は4ヵ所のトレンチ(試掘溝)が掘られ、過去の調査で不明であった遺構の確認などが行われた。
 今回の調査で、本堂前のトレンチから洲浜の遺構が見つかり、また出土品からも、室町時代に編纂された『浄瑠璃寺流記』に記載されている、1150年(久安6年)に浄土式庭園が整備されたという記事に繋がり、この時期の整備内容の一端を示す遺構であると推察され、現在の九体阿弥陀堂(本堂)が1157年(保元2年)に移築されたと確定され、1107~8年(嘉承2~3年)に本堂(西堂)が存在していた可能性が高くなったことを示す新たな発見となった。

[現地説明会:平成25年9月7日]
現地説明が行われる前に、副住職からの挨拶や、現場の責任者からの今回の発掘調査の概略の説明が行なわれた。 宝池東側から本堂を望む。手前の出島は昨年の調査では第9トレンチとして発掘されていたが、現在では元通りに戻されていた。

第10トレンチ(池の東岸)、昨年の第8トレンチに隣接している箇所の発掘。調査の結果、園路の下層から石を組んだ溝状遺構と井戸付近に存在する石組が溝状遺構に盛土してから設置されたことが確認。また遺構からは12世紀中頃から13世紀初頭の遺物が出土している。

三重塔の南側の第11トレンチ。 ここには以前から礎石が露出していた。発掘結果は礎石は全て元の位置から移動しており、建物の時期を確定は困難だったとのこと。中世の瓦が少量出土しており、中世には移動若しくは廃絶したとみられる。

本堂の正面階段の右手(北側)の第12トレンチ。本堂前約3mの位置に円形状の石組遺構が検出された。本堂正面部分は盛土で造成され、平坦地を作っており、石組遺構の掘方が見えないことから、盛土造成と同時期に作られたと考えられる。石組の1段目と2段目の石の間から12世紀前半頃の瓦器椀が出土しており、造成時期と考えれれる。

本堂の正面階段の左手(南側)の第13トレンチ。本堂から池側約5~6.4mの範囲で江戸時代に堆積した土砂を取り除くと青灰色粘土の上面に円礫が貼りついている州浜が確認された。州浜の前方に横木があり、それを境に州浜が無くなることから、池と州浜の教会を示すとともに、州浜の粘土を固定していたと考えられる。

今回の発掘調査での出土品。上の写真で上部の3つは10トレンチから出土品。左から平安中期の瓦器椀、真中は鎌倉初期の瓦器椀、右は平安末期の軒平瓦。下部の左は12トレンチからの平安前期の瓦器椀、右は10トレンチからの平安後期の瓦器小椀。中央の写真は12トレンチから出土した江戸時代の軒平瓦と軒丸瓦。 池に張り出している中島は1976年(昭和51年)に整備されたままで、島の周囲の縁石が露出しており、今年度中に保全のため修復事業が行われる予定。