神仏霊場・表紙 > 京都・楽土の道 >浄瑠璃寺・2

神仏霊場を行く
京都・楽土の道
神仏霊場のロゴをクリックすれば表紙に、京都・楽土の道をクリックすれば京都霊場の目次に戻ります。
京都第48番
浄瑠璃寺
浄瑠璃寺・1へ 浄瑠璃寺・3へ
浄瑠璃寺境内発掘調査
[参考資料:現地説明会配布資料『浄瑠璃寺庭園第2次発掘調査』]

浄瑠璃寺庭園(国特別名勝・史跡)の中心池(宝池)は興福寺一乗院門跡の恵信(藤原忠道の子)が整備したと伝わる。
  池を挟んで、現世の苦しみを救う東方薬師瑠璃光浄土(三重塔)と極楽往生を願う西方阿弥陀極楽浄土(本堂)が向かい合い、此岸(現世)と彼岸(来世)の世界を現わす浄土世界を具現化しているといわれる。
  現在の庭園の形態は、1976年(昭和51年)度に整備されたもので、35年以上経過する中で、庭園の荒廃、石組の破損、周辺樹木の大型化により、景観が変貌しており、平成22年度から5ヵ年計画で「特別名勝・史跡浄瑠璃寺庭園保存修理事業」が始められ、発掘調査が実施されることとなった。調査は平成23年度から3ヵ年間が計画され、平成24年度は2次調査として6月中旬から9月末までの予定で、6ヵ所の発掘調査が行われており、9月8日に現地説明会が行われた。
  浄瑠璃寺の縁起を記した『浄瑠璃寺流記(国重文)』の記録は室町時代で終わっており、江戸時代の状況はよく分かっていなかったが、今回の調査では江戸時代に行われた池の護岸改修工事の状況や創建当時の州浜が明らかになってきている。

[現地説明会:平成24年9月8日]
本堂前の満開の芙蓉 発掘調査の現地説明会参加者 発掘調査の現地説明会参加者
本堂の前は芙蓉の花が満開であった。 当日は多くの人が説明会に参加していた。上記の写真は現地説明会の冒頭、浄瑠璃寺及び調査の概要説明を聞く参加者。
第2トレンチの発掘状況 第2トレンチの発掘状況 第5トレンチの発掘状況
本堂正面の本堂前の第2トレンチ。江戸時代前半頃の護岸と中世時期の州浜が確認された。護岸工事は池底部分に胴木を置き、そこから西側に盛土をし、拳大から人の頭の大きさの花崗岩を置いた護岸が確認された。
州浜は現在の護岸工事から本堂に向かって、2.4mのところで検出された。拳大の円礫が30㎝四方の範囲に張り付けられていたが、他の場所には残存しておらず、後世の攪乱を受け、消滅したと考えられる。
中島を東西に断ち割った第5トレンチ。下層遺構はなく、
盛土で中島が造られていることが判明した。
第6トレンチの発掘状況 第6トレンチの発掘状況 宝池南側の鎮守跡地
南岸の第6トレンチ。現在の園路に並行する側溝跡と池方向に石組の遺構が検出され、州浜はなかった。
現在の園路は白山・春日神社跡地(右上の写真)に延びる参道と重なり、側溝跡は参道の側溝跡と考えられる。
石組機構の造られた年代は、盛土に利用されている粘土層から12世紀中頃の瓦器椀が出土しており、創建当時
のものとみられる。この石組遺構の用途は現在のところ、結論は出ていない(階段?・雨水の水路?)。
宝池南側にある鎮守跡地。
第8トレンチの発掘状況 第9トレンチの発掘状況 第9トレンチの発掘状況
第8トレンチ。深さ2mのところから拳大の礫が散乱した状態で検出された。江戸時代の護岸工事は更に手前の園路部分の下層にあると考えられる。 三重塔前東岸の第9トレンチ。東岸の洲浜は自然地形を活用した出島の付け根部分にあり、江戸時代の遺構からは拳大の円礫が検出された。また、出島南側の付根付近の下層部からは州浜が検出された。州浜の上層からは鎌倉
時代後半頃の巴文軒丸瓦が出土しており、創建当初の平安末期~鎌倉時代の遺構と考えられる。
発掘調査での出土品 発掘調査での出土品 開扉された浄瑠璃寺三重塔
手前は第6トレンチで昭和時代に盛土した部分から出土した江戸時代の軒平瓦。
奥の2点は第4トレンチから出土した鎌倉時代の軒瓦。
左側は第6トレンチから出土した室町時代の軒平瓦(手前)と瓦器椀(奥)。右側は第9トレンチから出土した鎌倉時代後期頃の丸瓦(手前)と第7トレンチから出土した平安時代(奥)、鎌倉時代(真中)の軒平瓦、。 国宝三重塔は毎月8日が特別開扉日で、説明会当日は
東方本尊の薬師如来像が拝観できた。